(無題)

静岡、山梨の皆さん特に富士宮の方々大丈夫ですか?
決して焦らず落ち着いてください。

地震があった時風呂に入っていて、揺れ始めの揺れ方があの日の揺れ方と似ていたので嫌な予感がしたんですが、風呂から出てテレビをつけたら予感は的中…。

まだまだ余震が来る可能性があるようです。地震が来たら難しいですけど、とにかく冷静になり落ち着いて安全な場所に避難してくださいね。
そして火の元と暗いので足元には充分お気を付けてください。
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3月12日:昼頃。
トラックの発電機で携帯を充電しようとなり、仮眠を止め総合体育館へ移動。

携帯を充電中ひっきりなしに警察のワンボックスカーがリングトラックとグッズトラックの間に止まる。
警察官は3〜4人で一つのチームを組み行動してるようで、車から警官が下り、後ろのドアを開けシートに包まれた遺体を用意されたタンカのようなものに乗せ体育館の中へ運んで行きました。
ご遺体を体育館の中へ運び終え、またすぐに街へ出発。

すると時間差で別の警察車両がやって来てまたご遺体を体育館へ。その車両が出発をするとまた別の警察車両が来るの繰り返しでした。

この時体育館の入口はヘドロの臭いが充満してました。運ばれて来たご遺体は、津波に飲み込まれ亡くなられヘドロの中からやっと捜し出してもらえた方々ばかりなんだと予想することが出来ました…。

2時間くらい総合体育館にいて、充電も完了したし自分達が避難している石巻高校に戻ることに。

帰ってくると、壁には…


安否を知らせる紙や、街の情報が書かれた紙が沢山張られてました。

寝床へ行くと、自分と隣の人の間に強引に2人が割り込みもう一方の隣の人296さんとの距離が20センチくらいになってて自分達がいなかった間にドンドンスペースは奪われてました。

あの何も言わずに入ってきたおばあちゃんの家族です。
あまりこんなことは書きたくないけど、あの家族は揃ってどうしようもないね。
たった一言「家族が多いのでもうちょっといいですか?」って言ってくれればいいのに。
最終的には自分達が机を整理して開拓した場所の半分を取られてしまいました…。

17時10分頃。
石巻高校の校庭に日の丸が入ったヘリコプターが着陸。
部屋にいた皆から自然に拍手が沸き起こる。
きっと救援物資に期待してたんでしょう…。
※ただの視察だったようです。

18時頃。
「配給です」と聞こえ初めて我々も列に並んだ。
もらえたのは…


薄く小さな煎餅1枚。。。
正直これだけ?って感じた。

石巻高校は指定された避難所ではなく、避難所に入れなかった人達のために石巻高校が厚意で避難できる場所を提供してくれてるので救援物資は指定の避難所優先で石巻高校までは回ってこないのが原因だった。

この煎餅は近くのお店からの差し入れだったようです。

19時頃。
後楽園大会で差し入れしていただいたクッキーを296氏、ボン様、神林、お話をするようになった男性二人、女性の方と分け合い食べる。
あのクッキーお腹に溜まったので助かりました。

20時頃。
菅総理の会見がラジオから聞こえてきた。
「本日被災地の福島に降りました。仙台・石巻はヘリで上空から見ました。」って内容。
聞いてて上空にいるなら救助活動をしろとまでは言わないけど、降りてポーズでもいいから1人でも2人でも被災者に「大丈夫ですか?」の一言くらいかけろよ日本の代表だろって怒りを感じる。
都内と違ってヘリを着陸させられる場所なんて沢山あるんだから!!!

21時半頃。
寝てると、石巻大会を応援してくださっってた方からカップラーメンの差し入れがあり他の方々には申し訳なかったけど人が来ない学校の隅でリングスタッフ、営業の高橋さん、菊地選手と頂く。
外だったので寒く、お湯がぬるくなってて麺は固かったけど今まで食べたどのカップラーメンよりも美味しい気がしました…。
カップラーメンを食べた後は暗い部屋に戻り、体力を温存するため寝ることに。

絶対にこの試練は乗り越えられる、乗り越えられる、乗り越えられるを繰り返し心の中で思ってたら、気がつけば朝だった…。


13日:8時頃。
遂に避難者のストレスが爆発し始めた。
市の職員さんに
・トイレが汚すぎる
・なんで○○中学校にはおにぎりや水の配給があるのにこっちは煎餅1枚なんだ
・夜が寒すぎる
等々怒鳴りながら要求していた。
それを聞いていて、トイレが汚いのは一人一人が意識して綺麗に使わなないからでしょ。おにぎりや水が欲しいなら○○中へ行くべき。寒いのは皆一緒だよ、市の職員さんに怒鳴ったって気持ちは解るけどただの八つ当たりで何も解決はしないでしょと思ってました。実際にここは避難所ではないんだから…。

9時頃。
カップラーメンを差し入れしてくださった方に呼ばれ、再び総合体育館へ。
今度はゆで卵を差し入れしていただいた。
たった1個のゆで卵だけど嬉しかったなぁ…。

ゆで卵を食べた後は天気もいいし数時間総合体育館にいる。

たまたまロビーにいたとき、アリーナから警察関係者が出てきて扉が開きました。
中に数十体のご遺体があるのが分りました。

自分達が体育館にいる2〜3時間の間にも次から次にご遺体が運び込まれてました。
シートのチャックが開いてて、ヘドロまみれになってたご遺体も見ました。

最初はご遺体が運ばれるたびに目を背けていたけど、段々この当たり前の光景から目を背けてはいけない、この災害でなくなった方々の分まで生き残った我々は絶対に生きなきゃならないし希望を捨ててはいけないんだと思うようになったんです。
なのでこの頃1度はチャレンジして出来なかった大便も、既に経験済だったスタッフにやり方を教えてもらい成功しました。48時間ぶりの大便です。たとえ誰かの便があっても、気にしてられません。生き延びるためにはいつかは乗り越えなきゃならないんだから!!
もう綺麗事だけじゃ生きていけない世界だったし…。

最大の不安を解消した自分は296氏と体育館付近の街がどんな状況なのかトラックで移動し、トラックで行けない場所は歩いて確認することにしました。
そこでの写真です。
本当はアップするべきなのか悩みましたが、国内に災害でこうなってしまってる場所が本当に存在する。もし災害が来たときにちょっとでも役に立てばと思いアップします。






ただこの写真よりもっともっと酷い場所は沢山あります。

想像を絶する光景でした。車はひっくり返り、重なり、信じられないくらい大きな看板や建造物の破片が道の真ん中に放置され、町中ヘドロだらけ…。

改めてM9の地震、津波の怖さを実感させられ同時によく生き残れたなと思わされました。
だってこの写真を撮った場所は11日の試合会場となるはずだった石巻総合体育館から歩いて10分位の場所ですからね。

今考えると我々にとっては全ての歯車がいい方向に動いていたんだと思います。

作業前に燃料を入れず時間がたっぷりあった休憩時間に入れに行ってたらどうなっていたか?休憩時間にゆっくりドラックストアーに買い物へ行ってたらどうなっていたのか?
たった、たった数時間違ってたら自分も津波に巻き込まれもうこの世にはいなかったと思います…。

歩き回ってて自衛隊の方と話をしました。
「石巻を出れる橋は今どんな状況ですか?」すると「1本は通れるようになりました。だけどまだ水が完全には退いてない場所があるけどトラックなら大丈夫でしょう。」とのこと。
296氏と急いで石巻高校へ戻り、黒木親方・高橋さんと話し合った結果、明るいうちに動こう。
もしも途中で動けなくなったらその時にその場所で考えようと話がまとまり一か八かで我々全日本プロレスリングスタッフは石巻を出発することにしたのです。

続きます。



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3月11日:18時頃。
避難所になるはずだった石巻市総合体育館は古い建物で危険なため「○○中学校と○○中学校が避難所ですからそちらに移動してください。」とアナウンスがあり殆どの方々はそちらへ移動。

リングスタッフはトラックに待機し依然ニュース中継に目をやる。また高齢者の方を含め20人弱の方々は総合体育館のロビーに残る。
この頃から携帯電話が完全に圏外になりメールのやり取りもできないようになった。

石巻は雪が降っていた…。

19時30分頃。
営業の高橋さんが菊地選手と動くと言い出したので、自分と296さんも「高橋さんと一緒に動きます。ここにいても何も解らないし、今の状況を知りたい。もしかしたら石巻を出られるかもしれないし!!」と黒木さんに伝えると「こんな暗い中危険だから今は待機してたほうがいい。道は波で流された車が散乱してるし、まだ水が退かなくて通れな。明日になって明るくなってから考えよう」と言われました。

覚悟を決めたはずだったのにかつて体験したことのない事態に焦ってました。黒木さんがいなければ焦って行動をして街に出て引き返すどこかトラックが水没して動かなくなり、未だに身動きが取れない状況になってたかもしれません…。
最終的に高橋さんともこの日は総合体育館で1夜を明けることにしました。

街灯もつかないので、この時間でも街中は、車のライトしか明かりはなく非常に暗かったです。

21時頃。
何もする事がないからトラックで仮眠することに。
ただ寝ても15分くらいで目を覚まし、また寝て15分くらいで目を覚ましを3回繰り返した時点で膝・腰が痛くなり体育館の中へ。

中へ入ると石油ストーブが2台そこまで寒くなかったので、296氏が長机を2台並べ後楽園ホールの売店で使用してるテーブルクロスを机にひき、もう一枚をかけ布団代わりにするベットを作ってくれたので、ボンバー斉藤レフェリー、神林見習いレフェリー自分の4人は総合体育館のロビーで寝ることにしました。
それに1日中トラックのエンジンかけてるとこの先貴重となるであろう燃料も勿体無いし。

やっぱ横になって脚を伸ばせると寝れました。
2時間くらい寝てたかな!?急に起きてしまったのです。原因は信じられない寒さ!!!

ストーブが消えてしまい、凄まじい速さで総合体育館のロビーの気温は下がりました。だってこの頃はやんでたけどちょっと前までは雪が降ってたんですから。

あまりの寒さに自分はトラックへ移動し、エンジンをかけ暖房で身体を温めることに…。

12日:0時30分頃。
身体を温めてると今後の毎晩続くであろう寒さとの戦いに何かいい方法を考えないと本当にまずいと凍死を真剣に考えさせられました。東北の3月は東京の方が考えてる以上に厳しいのです。

ある程度温まり燃料の心配もあったので、衣服を着込むことにしてTシャツは2枚、ジャンパー3枚、パーカー、下はトランクスにジャージ、ナイロンスエット2枚、靴下2枚。

エンジンを止め外に出ると街が暗いから星が綺麗で綺麗で…。

星を見ながら『神様は試練を乗り越えられない人には試練は与えない』って昔誰かが言ってたなと思い出し、だったら自分はこの試練を乗り越えられるんだと思ってたら泣けてきました…。

泣けてきたけど泣いてどうにでもなるなら泣く。
泣いてってしょうがないし、今は生き残らなきゃならない状況だから泣き言は言わないと星を見ながら決意!!!
それにしても、星空は災害なんてまるでなかったように綺麗でした…。流れ星も見えたし。

星空を見ながら体育館の入り口に向かってると、体育館の左の方が明るかったのです。何故明るかったかと言いますと、後から知ったのですが近くの小学校が火事だったから…。

どうやらその小学校は消火活動もきちんとできず、長時間燃え続け全焼したようです。

体育館へ戻ると296氏と神林がブルーシートで囲いをして簡易テントを作ってくれてたのでその中へ。

自分がトラックから戻るときに後楽園大会か銚子大会で京平さんにお饅頭を差し入れされた方がいて、そのお饅頭の残りをパンフレット売り場の箱から発見したので簡易テントで頂きました。

296氏、神林、自分もその時食べた饅頭が避難生活で1番美味しく印象に残ってます。
饅頭を食べた後は疲れか、胃が膨れた安心感からなのか8時前までグッスリ寝る…。

8時頃。
296さんの「移動だって」の声に起きる。
原因を聞くと総合体育館が遺体安置所になるから。

荷物をまとめてると、体育館に使えそうなものはないかと一足先に起床し、体育館中を探しに行ってた神林が戻ってきて「ステージにシーツで包まれた遺体がありました。」と一言。
どうやら遺体は既に運ばれていたようなんです。

この時点では石巻からはまだ出れないと判明。
石巻の自分達がいた場所は海に面していて、川で囲まれているから、そこから出るには3本の橋を渡る必要があります。その橋が全て塞がれていて誰も脱出することは出来なかったのです。

9時頃。
我々は近くの石巻高校へ避難。
我々が到着した時点では既に人は大勢いて自分たちの場所なんてありません…。

ただ地震で崩れた長机をきちんと整理すれば人数分の場所を確保できそうだったので、296氏、ボン様、神林、自分は普段リングを作ってるチームワークで机をさっさと整理。

途中罵声も浴びせられました。「そんなことして崩れたらどうすんだよ!!怪我するだろ!!」と…。

そんなの計算してるから高くは積まないし、あくまでそこは我々の場所を確保てるだけだからもしも怪我をしても自分たちです。それを伝えスペースを確保できましたを下にいる黒木さんや高橋さん達も呼ぼうとしたら何も言わず我々が作ったスペースに入ってくる人がいるのです。

それはないでしょ!!!

自分では何もしないで、人がやってるのを手伝いもしないで、ただ見ていて、出来上がったら何も言わずに入ってくる。

おばあちゃんだったし、一言「一緒にスペースちょっといい」って聞いてもらえれば助け合わなきゃ生き残れないし我々は誰も断らないよ…。

人間の嫌な1面が見えてしまいました。

結局296氏、ボン様、神林、自分の4人は2階で黒木さん達は1階でと別れることに。

この時点では隣の人は全然知らない他人だけど手を伸ばしてもぶつからないくらいだったし、やることもないので皆で寝ることにしました。

続きます。
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石巻で…

本日の20時前に無事に自宅へ帰宅することができました。

宮城県石巻で観測史上最大M9の東日本大震災の地震を自分は体験してきました。

未だに現地では苦しんでる方々が大勢いらっしゃいます。ちょっとでも今回の出来事を身近に感じてもらいたく、他人事にしてほしくないので自分が経験したことや感じたことを書き込みます。

もしかしたら知らないほうが良かったと思われることも書いてしまうかもしれませんが、なるべく事細かに書きます。


3月10日:21時半前に石巻のホテルへチェックイン。

11日:11時起床。12時集合、ホテルを出発。
会場の石巻総合体育館に到着するも作業開始まで45分あったから、体育館から少し離れたガソリンスタンドでトラックの燃料を満タンにする。
これが後々の出来事に対し大正解の選択となる。
燃料を満タンにしても時間があったのでコンビニやドックストアーで時間を潰す。
このシリーズはホテルで10泊する予定だったので、コンビニよりも安いドラックストアーでお茶、コーラ、チョコを買いだめ。この行動も後々役に立つ。

13時からリングを設営し14時半前にはリング完成。
のんびり休憩をしていて296氏、ボンバー斉藤レフェリーと「弁当まだかな?」と馬鹿話をしていると…
14時46分体育館が揺れ始める。
最初は震度3くらいかな!?と焦らず座り込んでいたら、ドンドン揺れは激しくなっていきました。
そのうち誰かが「危ないから外に出て!!」と叫び、体育館のドアを出た瞬間、揺れは最高状態に!!!

立ってるのがやっとだったけど、離れた場所で黒木さんが座り込んでいたから旗をあげる高さ5〜6メートルの3本のポールが倒れないか心配だったけど何とか5メートル先の黒木さんの場所まで移動に成功。

合流し黒木さんが「この揺れ方は尋常じゃない」と言ってると、電信柱は倒れそうになるし電線は信じられないくらい上下に動いてました。トラックはサイドブレーキを引いていたにも拘らず今にも動き出しそうなくらい前後に動き、地面には見る見るうちに亀裂が入りました。
3分ほど揺れていたでしょうか?やっと揺れが治まったから皆で集まって「凄かったな」と話していて体育館のガラスが割れてたのに気がつき、心配になり体育館の中を確認しに行くと、天井から大きな10キロ弱の水銀灯が2個も落ちていて更には20キロ以上はある天井の骨組みも落ちていたのです。そして壁のコンクリートは崩れ、館内のガラスは割れる。

特に天井から落下した骨組み、水銀灯を見てゾッとしました。これが試合中だったらどうなっていたか?
確実に観客の方にあたり10数人が最悪の結果になっていたでしょう。

そうこうしていると、体育館のスタッフさんから「ここが避難所になり、今から沢山の方が来るのを予想されます。」と聞き大急ぎでリング、イスを撤去することに。
撤去中も余震は続き、正直かなりの恐怖に襲われながらの作業でした。


撤去作業終了後、選手は石巻まで数十キロの位置で待機している情報が入ってきたので黒木親方と今後について話をしてました。
この時点では他の土地でも大きい地震があったくらいの情報はなく、石巻の情報は入ってなかったので営業の高橋さんは「試合はできないだろうけど次の大会地の弘前に向かいます」と言い、自分は「とりあえずここを移動して、選手がいるとこまで移動して仙台へ向かいましょう。」と言ってたら地元の方から「街は津波に飲み込まれ、水没し今現在人が埋まるくらいの高さの水があり、石巻を出る橋は1本も通行できません。仙台を含め宮城県は大変な状況になってます。」との情報が入ってきて、ここで初めてこの地震の被害の凄さを感じました。慌ててトラックのカーナビをニュース中継に変えると…。

信じられないし信じたくない光景が目に入ってきました。

下手に動くと危険なので、全日本プロレススタッフは石巻市総合体育館で待機することに。
徐々に体育館に集まる地元の方々。その数が多くなればなるほど不安な気持ちも大きくなりました…。

17時頃、人が集まり始めトイレに行ったら、トイレまで数メートルの地点で異臭を感じる。
何?と思いトイレに入ると、謎はすぐに解けました。
地震が起きた時点で電気・ガス・水道が止まったのです。
そうトイレを使用しても流せないのです。結果男性トイレの小便器はまだ我慢できますが、大便器の方はかなり不衛生な状態になります。大便をしても流せないから、次の人は前の人の便の上にまた便をするのです。その異臭でした。ただこればかりは人間の自然現象なので責められないし仕方がありません。
自分はこのトイレの現実を知ったときに、今後に最大の不安を抱きなるべく固形物は口にしないようにしました。
そしてトイレから戻ると、東北大会は開催できない情報が入り、黒木親方は「これはしばらく石巻を出られないかもしれないな?」と一言。

ここで覚悟を決め考えを切り替えました。まずは生き延びようと…


続きます。


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再・報告

約2時間程前に無事那須のホテルにチェックインしました。
ご心配おかけしました。
今は普通につく電気、普通に流せるトイレ、温かいシャワー・布団に幸せを感じております。

ただ、まだあの寒い避難所にいる大勢の方々や波に破壊され尽くした街を思い出すと胸が痛いです。テレビを観てて涙が出ます…。

避難所の皆さんには決して諦めないでほしい。沢山の犠牲者が出てしまった中で生き残れたんだから!!

皆が協力しこの試練を乗り越えられますように…。
そして1人でも多くの方が救出されますように……。


石巻にいる間ずっと圏外でした。心配して留守電、メールをくださった皆様ありがとうございました。
このブログでのお礼でご了承ください。
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