あの日から何日が経過したことでしょう…。
皆さんもそうだと思いますが、未だに自分の胸の中にもぽっかり穴ができてしまってる状態です。
三沢さんが試合中に意識不明になり、お亡くなりになられた事を聞いたのは13日の23時頃で山形の酒田で親戚と飲んでる最中でした。
色々な方から連絡が入り、酔っ払ってたし『嘘だろ?何かの間違いだよ!!』と思いながらも数人のマスコミさんに電話で確認したとこお亡くなりになられたのは事実と判明…。
その場の空気が氷りつき自分も親戚も皆で誤報であって欲しいと願っていました。
しかし三沢さんの事をニュースや翌日の新聞等で報道された時にはやはり真実なんだと思い知らされ、何も考えられなくなり暗闇のどん底に落とされた感覚になりました。
自分がプロレスファンになったのは新日本プロレス中継がきっかけでしたが、新日・全日両団体の中継を観ているといつの間にか自分は完全に全日の虜になっていたのです。
時期的には三沢さんがマスクを脱がれ超世代軍を結成し鶴田さん、ハンセン、ゴディ、ウィリアムスの強豪レスラーと激闘を繰り広げてる時で、当時中学生だった自分はメチャクチャ超世代軍に熱狂したものです。
三沢さんがハンセンから三冠王座を奪った夏のあの日、受験生で塾の夏期講習の最中だった自分は試合結果が気になって気になって授業に集中出来ずに、途中授業を抜け出し公衆電話にダッシュし当時の週プロ試合結果速報サービスで結果を確認したことがありす。
学校を休んで武道館大会のチケット予約をしたこともあったし、成人の年の新春シリーズでは三沢さんから選手の寄せ書きサイン色紙をもらったこともありました…。
今でもつい最近のことのように思い出せます。
そうそうもう時効なんで書いちゃいますが中学生の頃自分はハンドボール部に所属していてゴールキーパーでレギュラーでした。
最後の試合を5日後に控えていた月曜日の練習中、前日に全日中継を観て興奮冷めやらなかった中3の自分はゴールポストに向かってランニングエルボーを放ちました。
ポストの角にエルボーはクリーンヒットしましたが右肘に激痛が走り病院へ行くと見事に骨折が判明!!!
レギュラーキーパーにも関わらずチームに貢献するどこれか足を引っ張ってしまった自分…。
今初めて語る誰にも話したことのない右肘骨折事件の真実で、三沢さんに憧れてた中学生だった頃のほろ苦い思い出話です。
目を閉じると他にも色々なことが思い出されます。自分が全日本プロレスに入社したての頃物凄く緊張しながら七尾の体育館で初めてご挨拶をさせていただいたり、東スポの節分でお会いしたたり、試合会場でお会いし少々お話をさせていただいたこともありました…。
また入社して1ヶ月後くらいに電話でお話をさせていただいたこともありました。その日は前日から体調を崩していて病院から帰ってきた直後で、その事を伝えると三沢さんは心配をしてくださり、笑わせてくれ励ましてくれました。
そんな三沢さんが…
正直今でも信じられないし信じたくないです…。
人は誰にでも死は必然的に訪れます。当然自分にも、このブログを読んでくださってる方にも、全ての人にも…。
解っちゃいるけど辛いですよね。でもご遺族の方、NOAHの選手・社員・スタッフの方々の悲しみは自分とは比べものにならないと思います。
それなのに残ったシリーズをこなしてるのを見ると、いつまでも悲しんでばかりではいられません。
自分は三沢さんが愛したプロレス業界で働いてる事に誇りを持ち、これからも一生懸命生きます!!!
この日本に『三沢光晴』という素晴らしいプロレスラーがいたことは一生忘れません…。
もう叶わぬ夢となってしまいましたが、自分の夢の一つに少年時代から『夢・希望・勇気』を与えてくれていた三沢さんをコールしたいという夢がありました。
まだまだいつになるかは未定ですが、自分がそちらに行った際には是非夢である三沢さんのコールをさせてください。それまで三沢さんが愛したこっち世界のプロレス界でもっともっといいコールが出来るようになるよう頑張りますから。
最後に三沢さん今までお疲れ様でした。そしてありがとうございました!!!
ゆっくりお休みください。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます…。
阿部誠
皆さんもそうだと思いますが、未だに自分の胸の中にもぽっかり穴ができてしまってる状態です。
三沢さんが試合中に意識不明になり、お亡くなりになられた事を聞いたのは13日の23時頃で山形の酒田で親戚と飲んでる最中でした。
色々な方から連絡が入り、酔っ払ってたし『嘘だろ?何かの間違いだよ!!』と思いながらも数人のマスコミさんに電話で確認したとこお亡くなりになられたのは事実と判明…。
その場の空気が氷りつき自分も親戚も皆で誤報であって欲しいと願っていました。
しかし三沢さんの事をニュースや翌日の新聞等で報道された時にはやはり真実なんだと思い知らされ、何も考えられなくなり暗闇のどん底に落とされた感覚になりました。
自分がプロレスファンになったのは新日本プロレス中継がきっかけでしたが、新日・全日両団体の中継を観ているといつの間にか自分は完全に全日の虜になっていたのです。
時期的には三沢さんがマスクを脱がれ超世代軍を結成し鶴田さん、ハンセン、ゴディ、ウィリアムスの強豪レスラーと激闘を繰り広げてる時で、当時中学生だった自分はメチャクチャ超世代軍に熱狂したものです。
三沢さんがハンセンから三冠王座を奪った夏のあの日、受験生で塾の夏期講習の最中だった自分は試合結果が気になって気になって授業に集中出来ずに、途中授業を抜け出し公衆電話にダッシュし当時の週プロ試合結果速報サービスで結果を確認したことがありす。
学校を休んで武道館大会のチケット予約をしたこともあったし、成人の年の新春シリーズでは三沢さんから選手の寄せ書きサイン色紙をもらったこともありました…。
今でもつい最近のことのように思い出せます。
そうそうもう時効なんで書いちゃいますが中学生の頃自分はハンドボール部に所属していてゴールキーパーでレギュラーでした。
最後の試合を5日後に控えていた月曜日の練習中、前日に全日中継を観て興奮冷めやらなかった中3の自分はゴールポストに向かってランニングエルボーを放ちました。
ポストの角にエルボーはクリーンヒットしましたが右肘に激痛が走り病院へ行くと見事に骨折が判明!!!
レギュラーキーパーにも関わらずチームに貢献するどこれか足を引っ張ってしまった自分…。
今初めて語る誰にも話したことのない右肘骨折事件の真実で、三沢さんに憧れてた中学生だった頃のほろ苦い思い出話です。
目を閉じると他にも色々なことが思い出されます。自分が全日本プロレスに入社したての頃物凄く緊張しながら七尾の体育館で初めてご挨拶をさせていただいたり、東スポの節分でお会いしたたり、試合会場でお会いし少々お話をさせていただいたこともありました…。
また入社して1ヶ月後くらいに電話でお話をさせていただいたこともありました。その日は前日から体調を崩していて病院から帰ってきた直後で、その事を伝えると三沢さんは心配をしてくださり、笑わせてくれ励ましてくれました。
そんな三沢さんが…
正直今でも信じられないし信じたくないです…。
人は誰にでも死は必然的に訪れます。当然自分にも、このブログを読んでくださってる方にも、全ての人にも…。
解っちゃいるけど辛いですよね。でもご遺族の方、NOAHの選手・社員・スタッフの方々の悲しみは自分とは比べものにならないと思います。
それなのに残ったシリーズをこなしてるのを見ると、いつまでも悲しんでばかりではいられません。
自分は三沢さんが愛したプロレス業界で働いてる事に誇りを持ち、これからも一生懸命生きます!!!
この日本に『三沢光晴』という素晴らしいプロレスラーがいたことは一生忘れません…。
もう叶わぬ夢となってしまいましたが、自分の夢の一つに少年時代から『夢・希望・勇気』を与えてくれていた三沢さんをコールしたいという夢がありました。
まだまだいつになるかは未定ですが、自分がそちらに行った際には是非夢である三沢さんのコールをさせてください。それまで三沢さんが愛したこっち世界のプロレス界でもっともっといいコールが出来るようになるよう頑張りますから。
最後に三沢さん今までお疲れ様でした。そしてありがとうございました!!!
ゆっくりお休みください。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます…。
阿部誠