今日はエイプリルフールなので、嘘をついてやろうと企んでいたのですが、イマイチ、きれの良い嘘が思い付かないのでやめました。

そもそも、そのように考えてつく嘘の仕上がりはまた格段と質が低くなり得るものです。

今日はとても良い天気だったのでバードウォッチングへと出掛けました。

鳥は、空を飛んで何をしているのでしょうか。

打ち落としてやりたい!と思いながら、その場を過ごしました。

お昼御飯はケンタッキーへ行きました。

夕方からは都内へ出向き晶○リーさんのサイン会へといきサインと握手、更に作品を購入し、そそくさと帰宅しました。

ブルーレイ、さすがです。

というわけで、ここに書いた文章はほぼ嘘です。

ほぼです。

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先程、小田急線に乗っていますと、鹿と衝突したため急停車しました。

鹿…。

しかたない、ですね。

いやいや、罪深いですよ人類は。
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「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。」

「生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私 たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体な のだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たち は偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされていると いう状況が耐えられずにいるのである。」

私たちは、一個の人間として、他者から切り離された、つまり「不連続」な存在である。

しかしこの「不連続性」に、私たちは耐えられない。私たちはどこかで、他者との つながり、つまり「連続性」を求めてしまうのだ。

ところで、 「不連続」な私たちが絶対的な「連続性」へと回帰しうるのは、ただ 「死」によってのみだといえるかも知れない。

しかし「連続性」の体験は、決して「死」によって可能になるものではない。体験 は、「生」においてしかなされえないのだ。

そうしてバタイユは言う。

「この連続性への開けこそエロティシズムの奥義であり、またエロティシズムだけが この開けの深い意義をもたらすのだ。」

「極限まで行くことなく、決定的な一歩を踏みだすこともなく、超出したいとする欲 望のなかに留まることは、なんと甘美なことだろう。極限へ赴きながら死んでゆく、 欲望の過剰な暴力に従いながら死んでゆくということをせずに、この欲望の対象〔客 体、事物〕の前に長く留まり、生の内に自分を維持するのは、なんと甘美なことだろう。」

此岸から彼岸を見渡すような人生こそがエロティシズムを存分に感じれる人生であり、非常に濃縮された人生が送れるのだと考えさせれるものでした。

エロティシズムの根源とは、またその先に何があるのか?

日常のエロから、広義でのエロへ、道しるべとなる一冊でした。

※一部引用。

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