「早稲田大学の学生会館の、薄汚れた二十七号室が私たちのたまり場だった。そこには詩人会と短歌会と俳句会が雑居していて、いつもビールの空壜や、アジビラの屑が散らばっていた。(中略)いつも、長身で痩せた上級生が一人いて、いつも早口でまくしたてているのが印象的だった。」

競馬をこよなく愛した詩人・歌人・劇作家で'83年に47歳の若さで急逝した寺山修司さんは、'79年初版の「旅路の果て」のロックプリンスの節の冒頭で、早稲田の2年先輩の大橋巨泉さんと出会った頃の印象をこう書いています。

今は大半が休刊してしまいましたが、'73年か'74年に小学館の学年誌に掲載されていた人気芸能人の小ネタ記事で、巨泉さんが「なんでもとくいだが、なかでもけいばはとくいちゅうのとくい。じぶんでも、ロックプリンスごうといううまをもっている。」という記事を読んだ記憶があります。まだ「馬主」という言葉を知る数年前。
'70年生まれのロックプリンスは、明け4歳(当時は数え年。現在なら3歳)になって未勝利を脱出すると、条件平場・特別を連勝して、滑り込みで日本ダービーに出走しました。
東スポの追悼記事で巨泉さんとロックプリンス、更に鞍上の横山富雄騎手(現役の横山典弘騎手の父)のスリーショットが掲載されていましたが、恐らくこのダービーのパドックではなかろうかと思います。
ハイセイコーブームに沸いた'73年の日本ダービー。27頭立て(当時のフルゲート28頭から1頭取消)の21番人気のロックプリンスは、勝ったタケホープからは大きく離されたものの、人気よりははるかに上の11着。健闘したとも言えます。
その後伸び悩んだロックプリンスは巨泉さんの元を離れて宇都宮競馬にトレードされ、ナショナルボーイと改名されました。北関東(今は全て廃止された宇都宮・足利・高崎の3場)では活躍しましたが、'77年にレース中の故障で競走中止。あわや殺処分になる所を助かった同馬は、巨泉さんの口添えで牧場で余生を送りました。

巨泉さんのロックプリンスへの愛情は、冒頭に掲げた「旅路の果て」で寺山さんが書かれています。また、ナショナルボーイとしての牧場での晩年を、漫画家のやまさき拓味さんが「優駿たちの蹄跡」の中で描かれています。
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