選手時代には達成当時史上最多、史上初だった記録をいくつも打ち立て、監督としては史上5人しかいない通算1500勝を達成して3度の日本一を経験した野村克也さんが11日に84歳で亡くなりました。野村さんが風呂場で倒れているのを家政婦の方が見つけ警察に通報、病院に運ばれた後に野村さんの死亡が確認されたそうです。死因は虚血性心不全。2017年12月に亡くなった妻の沙千代さん同じでいわゆる「突然死」だったそうです。野村さんは沙千代さんが亡くなって以降かなりの喪失感があってプライベートではあまり元気がなかったと報じられていましたが、テレビ番組での饒舌ぶりを見ていたので「突然死」にはただただ驚くばかりです。

現役時代の通算ヒット数、通算ホームラン数、通算打点は全て歴代2位ですが、これらはすべて巨人の選手に抜かれるまで歴代最多でした。特にホームランは通算300号、400号、500号は野村さんが史上初で、600号は王貞治さんが史上初、年間最多ホームラン記録も野村さんが打ち立てた52本を1年後に王さんが55本にまで伸ばしたという具合で、巨人との因縁が何かとあるようです。選手の時にも、監督になってからも、今では当たり前になった戦術をたくさん導入してチームを強くしました。クイックモーションやギャンブルスタートなど、メジャーリーグのチームも導入するものもあったとか。具体的な戦術だけでなく、考えて野球をするという思想を日本の野球に浸透させたことも野村さんの功績だと言われていますよね。直感的な采配の長嶋巨人とID野球の野村ヤクルトが90年代に交互にリーグ優勝をしていたのも懐かしいです。「長嶋が向日葵なら俺は月見草」、現役の頃に語った言葉といわれていますが、もはや代名詞という感じです。

そういえば、巨人V9時代にあったある交流がID野球の礎になっているのかなと思うんです。リーグ優勝が決まると当時も祝勝会が行われていましたが、一人だけ顔を出さなかったのがレギュラーのキャッチャーだった森祇晶さん。森さんが何をしていたかといえば、日本シリーズで対戦する可能性があるパリーグのチームの情報を野村さんに毎回のように聞きに行ったんです。南海が相手の時にはさすがにできなかったでしょうが、野村さんは惜しげもなく森さんに阪急やロッテのことを教えていたそうです。こういった交流が間違いなくID野球の礎になったはずです。そして、森さんと野村さんは当時から「キャッチャーの地位を高められるように頑張ろうな」と語り合っていたそうです。そして、森さんは伊東勤さん、野村さんは古田敦也さんをそれぞれリーグを代表する名キャッチャーに育て上げ、誓いを実現させました。

こういうことを並べているとまさに「巨星墜つ」という言葉がふさわしいように感じます。ご冥福をお祈りいたします。では、また次回です。
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