先週に続いて大相撲7月場所で30場所ぶりの優勝を果たした照ノ富士の話を。現在28歳の照ノ富士は鳥取城北高校を卒業してプロ入りしたのでプロ10年目ですが、何度となく土俵人生の転機を迎えているようなんです。

最初の転機は部屋の解散。高校卒業後まず56代横綱若乃花(2代目)の間垣部屋に入門し、2011年5月の技量審査場所(夏場所の代替開催)で初土俵。彼を入門させたくても外国出身者の入門受け入れ規制で泣く泣く諦めた部屋の師匠もいたというほどの有望株といわれていました。順調に番付を上げていきますが師匠の体調が悪化したため2013年3月に部屋は解散。63代横綱旭富士の伊勢ケ浜部屋が当時所属していた力士たちを受け入れました。間垣部屋時代には若三勝と名乗っていましたが、伊勢ケ浜部屋に移ったのに合わせて現在の照ノ富士を名乗るようになりました。照ノ富士の「照」は現在から数えて2代前の師匠だった38代横綱照国(1代前の師匠は元大関清国)、「富士」は現在の師匠の旭富士からそれぞれとったというのですから期待はかなりのものだったかもしれません。その期待に見事にこたえて移籍後2場所続けて勝ち越しを決め関取の座を勝ち取りました。一説には、間垣部屋時代は師匠が満足に指導できずちゃんこにも事欠いてしまい、あまり環境が良くなかったといわれていました。しかし、伊勢ケ浜部屋に移って稽古環境が一気に改善して番付を一足飛びに駆け上がれるようになったといいます。

次の転機は大関からの転落。2015年夏場所の初優勝で大関昇進しましたが、ひざや肩のケガが重なりカド番を何度も経験。ついには2017年秋場所限りで大関から転落。糖尿病も発覚し番付は更に下がっていきます。その間には当時の横綱・日馬富士が巡業先の鳥取県で幕内力士に暴行をふるった場に同席していたために相撲協会から厳重注意を受けたこともありました。大関から転落した力士は、大関陥落が確定してすぐとか幕内から十両に転落した時に引退を決断するものです。しかし、照ノ富士は大関陥落が25歳の時だったこともあってか、ひざと糖尿病の治療を優先させることを師匠とともに決断。序二段からの土俵復帰に至ったわけです。その後は…といえば、もうお分かりの通り。勝ち越しを続けて着々と番付を戻していきました。「2015年の優勝はイケイケだった。でも、今は周りをよく見て1つ1つ大事にするようになった」と振り返るように努力を重ねて優勝にまで至りました。

年齢的に可能だったといえばそれまでかもしれません。人それぞれの引き際の考え方もあるかもしれません。でも、挽回が叶えば進化へのターニングポイントにすることもできることを証明できたともかんがえられるのではないでしょうか?

ではまた次回です。
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