高校野球が誕生して今年で100年、NPBのリーグがスタートして来年で80年(NPBの公式のプロフィールでは、巨人が設立された1934年がNPBの歴史が始まった年とされ、昨年をNPB誕生80年としていますが、プロチーム同士のリーグがスタートしたのは1936年です)と、野球界にとってメモリアルな年が続きます。そして今年は「戦後70年」でもあります。東京ドームの近くに太平洋戦争で命を落とした野球人(特にプロ野球関係者)の慰霊碑があります。そこには戦前の野球界を彩った人たちの名前も多く刻まれているそうです。そんな中、野球ができる平和をかみしめるための取り組みが進んでいます。その中心にいるのは、やはり、平和都市・広島を拠点に置く広島カープです。
原爆記念日の8月6日、広島のホームが広島市民球場だったころは、市民球場にほど近い広島市内の中心街であらゆる記念行事が行われていたため、交通に混乱が生じる可能性があるとしてホームゲームは市民球場でなく福山や呉、岡山県(県営球場や倉敷マスカットスタジアム)など別の会場を使っていました。しかし、ホームが広島市の中心街からやや離れたところのマツダスタジアムに移ってからはこういう配慮をする必要がなくなったからか、8月6日にマツダスタジアムでホームゲームをやるようになりました。
2013年8月6日、マツダスタジアムで初の原爆記念日でのホームゲーム(広島-阪神)。この時には被爆しながらも残ったオルガンが球場に運び込まれ、被爆2世(被爆者の子供)であることをこの数年前にカミングアウトした吉川晃司さんが「イマジン」を歌ったり、事前に配布したフリーペーパーを掲げてもらって緑の輪を作って平和をアピールしたりしたそうです。この日は他のセリーグの試合会場でも平和を訴えるためのアトラクションが行われ、横浜DeNA-巨人が行われた福島県郡山では、地元出身で評論家時代から復興支援に取り組み続けているDeNAの中畑監督を中心にした震災復興へのアピールも行われました。
そして、今年の8月6日、原爆投下からちょうど70年というこの日、マツダスタジアムで行われた阪神戦で広島の選手は側頭部に白いハトが描かれた帽子をかぶり、胸にPEACEと書かれ、背番号が86というユニフォームを着て戦いました。同じ背番号をつけて試合を行うのはセリーグでは初めての試みだったとか。パリーグでは、埼玉西武が鉄腕と称された西鉄時代の大エース稲尾和久さんの背番号24を没後に永久欠番にした際、ホームゲームではもちろんのこと、稲尾さんゆかりの場所でもあるアウェイの福岡で行われた福岡ソフトバンク戦でも埼玉西武の選手全員が背番号24をつけてプレーしたケースがあります。ただ、特定の人物の功績をたたえるために同じ背番号をつけることはあっても、人物とは関係ないメッセージを込めた背番号を作ってつけるケースは日本球界では初めてのようです。
「逆転の日本史」のような話になってしまいますが、もしも沢村栄治や景浦将が生き延びて戦後にグラウンドに戻ってきたら…、夏の甲子園決勝でノーヒッターになった嶋清一が戦争で死なずにプロのマウンドに上がっていたら…日本のプロ野球はどこかしら変わっていたかもしれません。今のような繁栄に導かれていく変化かもしれないし、逆に衰退へたどってしまう変化かもしれません。ともあれ、そんな空想・妄想をいつまでも話せるような、そしていつまでも野球を楽しめるような幸せを感じ続けたいですね。
では、また次回です。
原爆記念日の8月6日、広島のホームが広島市民球場だったころは、市民球場にほど近い広島市内の中心街であらゆる記念行事が行われていたため、交通に混乱が生じる可能性があるとしてホームゲームは市民球場でなく福山や呉、岡山県(県営球場や倉敷マスカットスタジアム)など別の会場を使っていました。しかし、ホームが広島市の中心街からやや離れたところのマツダスタジアムに移ってからはこういう配慮をする必要がなくなったからか、8月6日にマツダスタジアムでホームゲームをやるようになりました。
2013年8月6日、マツダスタジアムで初の原爆記念日でのホームゲーム(広島-阪神)。この時には被爆しながらも残ったオルガンが球場に運び込まれ、被爆2世(被爆者の子供)であることをこの数年前にカミングアウトした吉川晃司さんが「イマジン」を歌ったり、事前に配布したフリーペーパーを掲げてもらって緑の輪を作って平和をアピールしたりしたそうです。この日は他のセリーグの試合会場でも平和を訴えるためのアトラクションが行われ、横浜DeNA-巨人が行われた福島県郡山では、地元出身で評論家時代から復興支援に取り組み続けているDeNAの中畑監督を中心にした震災復興へのアピールも行われました。
そして、今年の8月6日、原爆投下からちょうど70年というこの日、マツダスタジアムで行われた阪神戦で広島の選手は側頭部に白いハトが描かれた帽子をかぶり、胸にPEACEと書かれ、背番号が86というユニフォームを着て戦いました。同じ背番号をつけて試合を行うのはセリーグでは初めての試みだったとか。パリーグでは、埼玉西武が鉄腕と称された西鉄時代の大エース稲尾和久さんの背番号24を没後に永久欠番にした際、ホームゲームではもちろんのこと、稲尾さんゆかりの場所でもあるアウェイの福岡で行われた福岡ソフトバンク戦でも埼玉西武の選手全員が背番号24をつけてプレーしたケースがあります。ただ、特定の人物の功績をたたえるために同じ背番号をつけることはあっても、人物とは関係ないメッセージを込めた背番号を作ってつけるケースは日本球界では初めてのようです。
「逆転の日本史」のような話になってしまいますが、もしも沢村栄治や景浦将が生き延びて戦後にグラウンドに戻ってきたら…、夏の甲子園決勝でノーヒッターになった嶋清一が戦争で死なずにプロのマウンドに上がっていたら…日本のプロ野球はどこかしら変わっていたかもしれません。今のような繁栄に導かれていく変化かもしれないし、逆に衰退へたどってしまう変化かもしれません。ともあれ、そんな空想・妄想をいつまでも話せるような、そしていつまでも野球を楽しめるような幸せを感じ続けたいですね。
では、また次回です。
[Web全体に公開]
2015年08月07日 03:00 |
by若虎大好き on 2015年8月7日 @5時32分
by on 2015年8月7日 @9時26分
野球が出来る喜び。野球が観られる喜び。
byShow GK on 2015年8月9日 @5時12分
>名無しさん
コメントありがとうございます。
ピースナイターで大事なことは勝ち負け以外のところにもあると思います。やる方も見る方も純粋に、何ら不安を抱えることなく野球を楽しめるかどうかということではないでしょうか? 心置きなく楽しめるものがあるのも、平和をかみしめることのできる一つのパターンかもしれません。
脈絡が付かないコメントで申し訳ありません。
今後も気が付いたら、気が向いたらコメント欄へどんどん書き込んでいただくとうれしいです。これからもよろしくお願いします。